南山堂

カートを見る

立ち読み
注文数:

予約受付中
6月下旬発売予定

今日がいちばんいい日

1版

テクノ アサヤマ 著

定価

2,640(本体 2,400円 +税10%)


  • A5判  431頁
  • 2025年7月 発行
  • ISBN 978-4-525-50581-3

死んだことのない私たちは、どのようにして、死にゆく人に向き合うのか。

緩和ケアと僻地医療を経た後,総合診療に従事しながら哲学の研究を行っている著者が,生きることと死ぬことを見つめながら綴ったエッセイ.
緩和ケアとは何か,病とともに生きるとはどういうことか,倫理的であるにはどうすればよいのか.死んだことのない私は,死にゆく人のとなりで何ができるのか.「じぶん」と「じぶん以外の人」の間には何があって,何がないのか?
答えのない問いを抱えながら,前に進むための一冊です.

※本書は,2018年より日経メディカルOnlineにて連載中の「今日がいちばんいい日」を再構成および改題し,加筆修正を行ったものです.

  • 生きるための緩和ケア病棟
  • 目次
生きるための緩和ケア病棟
 緩和ケア病棟ときいて、みなさんはどんなイメージをもつだろうか。

 「余命いくばくもない人が入院するところ」。「死ぬための場所」。近くに迫っている「死」がどうしても意識にのぼりがちである。それは決して間違いではない。

 しかし、「死を迎えるための場所」は、同時に「死ぬまでの間を生きる場所」でもある。死を迎えるための場所では、人が生きている。死ぬまでの間を生きるために、ここに来る人もいる。

 イリヤさんは臙脂色のスーツケースを引いて緩和ケア病棟にやってきた。はつらつと背筋を伸ばし、ピンク色のレンズのメガネをかけて「よろしくお願いします」と笑う。八十歳近いが、歩くスピードは私より速い。何も知らなければ、この人が末期の膵臓がんで、モルヒネを一日に何mgも飲んでいる人だとはとても思えない。

「別居して三十年、ようやく夫と離婚しました。息子の手伝いをするつもりでこっちに引っ越したらすぐ病気になっちゃって、どうしようか困っていたから、とてもありがたいです。ご迷惑にならないように頑張りますね」

 独居老人という言葉について回るうら寂しさは彼女とは無縁だった。朝には病院のレンタル寝巻きから花柄のセーターと黒いズボンに着替え、スクワットなど足腰の体操を行う。窓際には文庫本が積まれ、昼間は読書をしたり友人への手紙を書いたりして過ごし、いつも姿勢をまっすぐにしてシャキシャキと歩いていた。一方でがんは全身に転移していて病状は厳しく、私は余命三か月と診断した。しかし彼女のかくしゃくとした姿に、もっと長く生きていられるのではないかと期待させられた。

 ある日彼女は銀行の窓口に用事がある、と外出届を出した。一人で行ってくると言うが何しろ末期の
がん患者なので、付き添いがいるに越したことはない。ちょうど手が空いていた私が一緒に行くことに
した。

「わざわざ先生についてきてもらっちゃって悪いわ。ありがとう」

 銀行までの短い坂道をしっかりとした足取りで歩く。私が気遣って歩幅を狭くしたり足の運びを遅くしたりする必要は一切なかった。昼前のオフィス街の銀行は混み合っていた。番号札をとって待合室の椅子に腰掛ける。銀行員が近寄ってきて用件を聞き、タブレット端末を渡した。最近は、必要事項をタブレット端末に入力して手続きするようだ。彼女は面食らったようで、結局私が、イリヤさんにいちいち尋ねながら入力することになった。入力の終わった端末をイリヤさんに返すと、彼女はしげしげと画面を眺めながら言う。

「私もスマホにしようかしら。スマホなら色んなことを調べたり、動画を見たりできるんでしょ。次、息子が来たらスマホのお店に行きたいわ」

 ああ、彼女は生きている。

 三か月後の死よりも、今の生を、三か月後までの現実を生きている。余命三か月ということは、あと三か月は生きているということだ。毎日、病棟で誰かが死んで、仲良くお話していた人も次の週には死んでしまう。そんな毎日で、当たり前のことを私は忘れていた。目の前の彼女は今を生きている。一生懸命生きる命そのものの力強さに私は圧倒された。そうですね、イリヤさんならすぐスマホを使いこなしそうです、と答えたところで表示板に彼女の番号が灯った。

 手続きを一通り終えると流石に少し疲れたようだ。息切れがあり、私は予め持参していたモルヒネの速放剤を差し出した。銀行を出るまでに、休憩して息を整える必要がある。

「ありがとう」

 待合室の椅子に座って症状が治まるのを待つことにした。彼女が息を整える間、私は目の前の柱に貼ってあるポスターの文字を読んで待っていた。「退職金限定スーパー定期預金」の小さい文字の説明を読み終わった頃、彼女は立ちあがってリュックサックを背負った。

「もう大丈夫。ご迷惑かけてごめんなさい。帰りましょう。帰ったら、先生に謝らなきゃいけないことがあるの」

 私の顔を見上げて、白い歯を見せて笑っていた。謝らなきゃいけないこと?と尋ねると、 

「帰ったらね。私、先生に怒られちゃうわ」

 行きと変わらずスタスタと病院への道を歩いた。行きは下り坂だった上り坂も、私と同じペースで登っていた。病院へ帰ると、もうすぐ昼食の時間だった。私も弁当を食べに医局に戻った。

「先生、お話いいかしら」

 昼休みが終わって病棟に戻ると、イリヤさんに声をかけられた。さっきの話ですね、と声をかけて面談室に彼女を呼び入れた。茶色の大きな紙袋を面談室のテーブルに置いて、いつも読んだ本の話をするのと同じ口調で彼女は話し始めた。

「ここの病棟に入院できることになって本当に感謝しているの。最初は二~三か月待つと言われて、でも思いがけず早く入ることができて、本当にありがたいわ」

 それは彼女が入院したときから繰り返し語っていた内容だった。

「こっちにきて病気が分かって、もう手がつけられない状態だと言われた。余命は三か月と言われているのに、緩和ケア病棟も三か月待つって話だから、私はどうしたらいいのかと途方に暮れていたの。一人暮らしもいつまでできるか分からないし、息子は息子で大変だから迷惑はかけられないし」

 息子さんの事業がうまくいっていないという話は後に知った。

「だから、体が動かなくなってしまう前に、自分で終わりにするしかないって思っていたの。人に迷惑のかからないような山奥で、薬をたくさん飲んで終わりにしようと考えてた。そのために、処方される頓服の薬を、飲んでないのに嘘をついて溜めていたの」

 迷惑をかけたくない、は彼女の口癖だった。

「今考えれば、そんなことしたら余計に迷惑かけちゃうのにね。でも、そんな時に、ここの緩和ケア病棟に来週入れますってお電話頂いたの。心からホッとしました。おかげさまで今こうしていられます。自殺なんて悪いことを考えていたのを先生に話したら、きっと怒られるだろうなと思って言えなかった。でも、この隠していた薬が見つかったら、病院にご迷惑をおかけするわね。だから、先生に全部お話しようと思ったの」

 紙袋の中身は山程の医療用麻薬だった。彼女が本気で自殺を計画していた証拠が質量を持ってそこにあった。

「この薬、もう必要ないわね。私はここに来れたから、もう何も心配なく生きていけるもの。こんな悪いことを考えて本当にごめんなさい。この薬は、私の罪だと思って、先生が処分してください」

 緩和ケア病棟があったから、彼女は生きられた。死ぬための間をどうやって生きたらいいか分からず、生きるのをやめようと思った人を、緩和ケア病棟が救った。死ぬための場所があるから、死ぬまでの間、生きることができる。この仕事をしていて初めてはっきりと、自分の仕事が人を生かしたという実感が、渡された紙袋の重さで目に見えた。私は泣いていた。

「イリヤさん、こんな大切なことを話してくれてありがとうございます。もう自殺なんて考えたらダメですよ。ここで安心して暮らしていていいんですから。寿命が来るその日まで生きていて下さい。約束ですよ」

 私は小指を差し出した。指切りげんまんをしたら、彼女も泣いていた。

 彼女は私との約束を守り、三か月半後に寿命を全うした。死ぬための緩和ケア病棟が伸ばした彼女の三か月の命。「死ぬまでの間は、生きている。」私が働いているのは、死ぬまでの命を生きる場所である。



 この本は、都会の緩和ケア病棟と、過疎地の地域医療を行き来したのち、社会人大学院生になって哲学の研究をしている医師のお話です。どこからでも、好きなところから読めるので、さっそくページをめくって、気になったタイトルのものから読んでみてください。
目次
生きるための緩和ケア病棟 

1.緩和ケア編
どうにもならない坂道に咲く花 
今週も木曜日が来る 
命はまるで虹のように 
棺桶に入るまでにやりたいことリスト(前編) 
棺桶に入るまでにやりたいことリスト(後編) 
夜明けの緩和ケア医 
メロにしか聞こえない 
傘は開いて中腰で、待・つ・の。(前編) 
傘は開いて中腰で、待・つ・の。(後編) 
一行のカルテの向こうに 
寄り添いは思い上がり 
ひとりきりの私たちの間に、夜空 
線香と花と空想科学読本と 
打ち上げ花火を対岸から見てみたら 
なぜ医師は地下鉄でサリンを撒いたのか?もしくは、緩和ケアは誰を救うか? 

2.地域医療編
敬語の「敬」 
たまたまが重なる場所 
Too young to die 
星降る当直の夜に 
投げたまま消えて返らないボール 
十五の夜を、今 
Sunshine, on San Salvador 
知らないままで仏 
手を合わせて、交信中 
九十歳、スキップして 
ミノタウロスの迷路から 
十万キロを来た愛車と、あと二十万キロ 
続いていく線路のポイントの上で 
ウイルスの波間を駆け抜ける 
マスクをして、その先へ 
三日目を待つ処方 
煙草屋のおばさんは禁煙を勧めたい 
ときに牙をむく怪物との共存 
物体になった日のこと 
高速道路のネズミ 

3.哲学編
今夜ヴァンパイアになって 
私は死んだことがない 
あたらしい日常 
正義は袋小路で味わう苦さ 
まあまあ、だんだん、どんどん を分け合う 
本当に、あげたかったものは 
[Gmail]訃報 
私を医者にするもの、あなたから引き離すもの、我々を繋ぐもの 
少し読んでたくさん考えるための読書ガイド 

ずっと、ここで待っていた ――あとがき 


・本書のエピソードは、事実に基づき、内容を再構成しています。
・登場人物はすべて仮名です。
カートに追加しました。
お買い物を続ける カートへ進む