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カテゴリー: 医学・医療一般

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臨床と宗教 死に臨む患者へのスピリチュアルケア

1版

鳥取大学医学部地域医療学講座 講師 孫 大輔 編著

定価

2,750(本体 2,500円 +税10%)


  • A5判  203頁
  • 2023年6月 発行
  • ISBN 978-4-525-50561-5

「死」に対して,医療は無力である

あるとき若い学生に「先生にとって、死とは何ですか」と単刀直入に聞かれ,どう答えようかと困惑したことがあった.医学的な死について説明するのは容易いが,ここで聞かれていることは〈私〉にとって死とは何かという問いであった.

高齢化の進んだ日本の医療現場では今後ますます死を身近に感じることとなります.医療技術が進歩した一方で,地縁の希薄化などにより「死んだらどうなるのか」「お葬式はどうするのか」など死生観にも個別性が出てきています.不意に患者や家族から発せられる生老病死の苦しみの訴えに医療者はどのように応えればよいのでしょうか.
本書ではプライマリ・ケア医と5名の専門家との対談から日本人の宗教観や死生学の知識,スピリチュアルケアに挑むための心構えを紐解いていきます.

  • 序文
  • 目次
  • 書評
序文
 臨床と宗教は古くから密接な関係にあった。歴史を紐解けば、宗教は医療の源泉として機能してきた。古代エジプトやギリシャ、ローマでは、神々の力が治療に役立つと信じられており、神殿は病気や怪我を治療するための施設としても機能していた。キリスト教やイスラム教もまた、病人を癒すための施設や医療機関を設立しており、中世ヨーロッパでは修道院が医療の中心地として機能していた。
 近代医学が誕生する17世紀以前、日本や欧米において医療と宗教は一体化していた。それが科学的思考が重視されるにしたがって、医療と宗教はまったく異質のものと認識されるようになった。近代医療は宗教と決別することで、その発展を成し遂げたわけである。今では医療者にとって宗教を語ることはタブーとさえ言えるような雰囲気もある。
 しかしながら昨今、病む人をさまざまな角度から捉えようとする認識が高まり、これまでの医療では病気の治療はできても、病人の癒しは不得手であるという現実が指摘されるようになった。たとえば、終末期患者の「生命の質」の問題や「死への心の準備」の対応がうまく図れていないというものである。
 「死」をどう捉えるかは近代医学にとって大きな問題である。近代医学が疾患の治癒自体をゴールとして捉える限り、死は治療の失敗を意味する。近代医学は死をフィジカルな死としてしか扱っておらず、そこにいわゆる「宗教」が入り込む余地はない。しかしながら、実際には医学教育や医療のなかにも「宗教性」は存在する。医学部の教育過程には「解剖実習」というものが存在する。解剖実習は、医学教育における通過儀礼として機能しており、解剖学的な知識を学ぶと同時に死者を敬う行為やメタフィジカルな「死」を考える機会を提供する。また、終末期の臨床においてスピリチュアルペインや「死の質(quality of death)」が重視されるようになったことも、医療における宗教性の例である。
 本書で扱う宗教は、必ずしも創唱宗教(特定の教祖がいて明確な教義を持つ宗教)を意味しない。むしろ広い意味での宗教、すなわち宗教性やスピリチュアリティという観点から捉えていく。本書を出版するきっかけとなったのは、医学教育において「死」の問題、あるいは宗教性がほぼ取り扱われていないということであった。個人的には、患者の死を医師としてどう捉えるのか、患者の死に際してどう振る舞い、遺族にはどう接するべきなのかという疑問に端を発していた。そうした他者へのケアからみた「死」と同時に、一人称の死、つまり、「私にとって死とは何か」ということを考えるヒントも、本書ではわずかながらに探求してみたつもりである。
 第一章「医療者が考えるべき日本人の宗教観」は、プライマリ・ケア医であり死生学の研究もされている井口真紀子氏との対談である。内容は日本人の死生観、スピリチュアルケア、グリーフケア、死別の社会学などに及んでいる。医師として答えのない問いにどう向き合うか、死生学を医師が学ぶ意義などをプライマリ・ケアに携わる医師二人が論じており、本書の導入となる部分である。
 第二章「医療からこぼれ落ちるもの」では、融通念佛宗僧侶であり龍谷大学教授の森田敬史氏と対談している。ビハーラ僧としての経験、臨床宗教師が生まれた経緯と今後の課題、日本人の宗教観、共感と受容、宗教にできることなどを論じている。臨床宗教師の育成にも従事する森田氏の論点は、仏教という特定の宗教に限らず、臨床宗教の医療との接点や今後の発展可能性など、広い視野で考察するものとなっている。
 第三章「無限の闇を前にして」は、横浜聖霊キリスト教会牧師であり明治学院大学教授の深谷美枝氏との対談である。キリスト教の世界観、十字架とアガペー、病院チャプレンの現状、スピリチュアルケアとパストラルケア、キリスト教の霊魂観などを論じる。とくに、神義論あるいは弁神論といわれる「沈黙する神」の問題とともに、20世紀神学の到達点についても話が及び、主にキリスト教という観点から臨床との接点について洞察を深める。
 第四章「スピリチュアリティを辿る」では、宗教学者で上智大学グリーフケア研究所客員教授の島薗 進氏をお迎えしている。日本のスピリチュアリティの変遷、水俣病問題、グリーフケア研究所の設立経緯、「悼む」という言葉、死に臨む医療者の主観と客観などに話は及んでいる。日本を代表する宗教学者である島薗氏の話は、日本におけるスピリチュアリティの変遷の歴史を概観しつつ、その観点から医師と死の臨床、医師とグリーフケアのあり方などについて論じるものとなっている。
 第五章「雲は死なない」は臨済宗・ベトナム禅宗了観派 比丘のブラザー・サンライト氏との対談である。ティク・ナット・ハン師とマインドフルネス、日本的な瞑想とマインドフルネスの違い、インタービーイング(相即・相互存在)などを骨子としつつ、マインドフルネスを世界的に広めた第一人者であるティク・ナット・ハン師の教えを中心に解説している。「雲は死なない(A cloud never dies)」とは、インタービーイングの教えをティク・ナット・ハン師がわかりやすい言葉にしたものであり、いわゆる「空」あるいは「諸法無我」の思想に通じるものである。
 終章「臨床と宗教 スピリチュアリティのかなたに」は、以上の対談を踏まえて、改めて私が考える臨床と宗教/スピリチュアリティとの接点について、医師が宗教性を考える意義などについて論じている。ケアの行為とスピリチュアリティ、多死社会と死生観などに加えて、神義論の現在、民藝運動と利他、「かなしみ」のスピリチュアリティ、魂といのちの問題などについて、私の思うところを述べている。
 改めて、対談に応じていただいた先生方、および南山堂の片桐洋平氏に深く御礼申し上げたい。本書を通じて一番の学びを得たのはおそらく私自身であり、「臨床と宗教」という見果てぬ山野をいささかながら跋渉できたのではないかと感じている。

2023年4月
孫 大輔
目次
目 次

医療者が考えるべき日本人の宗教観 孫 大輔×井口真紀子(プライマリ・ケア医 死生学研究者)
 家庭医が死生学を学ぶ
 日本人の死生観
 学ぶ機会のないスピリチュアルケア
 医師としてのトラウマ
 死者と生者の継続する絆
 グリーフケア
 多様化する死生観
 死生学のすすめ
 臨床宗教師が生まれたからこそ医師がやるべきこと
 マクロで考える死生観
 医師は死生学をどう学ぶべきか
 医学とは異なる知のあり方
 答えのない問いへの向き合い方

医療からこぼれ落ちるもの 孫 大輔×森田敬史(融通念佛宗 僧侶)
 ビハーラ僧の仕事
 臨床宗教師が生まれたきっかけ
 日本人の宗教観
 臨床宗教師のこれからの課題
 寄り添う相手 理想と現実問題
 成果を求めるアプローチの限界
 宗教に何ができるか
 医療と臨床宗教の親和性
 スピリチュアルケアを誰が担うのか
 宗教の価値を認めてもらうための道筋
 臨床宗教学が超えるべき壁
 共感と受容
 テクノロジーが進んだ今だからこそスピリチュアルケアを

無限の闇を前にして 孫 大輔×深谷美枝(横浜聖霊キリスト教会 牧師)
 カトリック? プロテスタント?
 若き日に感じた人間の死
 教師とキリスト者としてのキャリア
 イエスはメシア=キリストである
 キリスト教の世界観
 十字架とアガペー
 病院チャプレンの現状
 スピリチュアルケアとパストラルケア
 スピリチュアルケアの専門職
 佇んでいく力
 自分の中の悪
 キリスト教の霊魂観
 苦しみによる連帯
 瞑想から得られるもの
 介護の苦しさ
 20世紀神学の到達点

スピリチュアリティを辿る 孫 大輔×島薗進(宗教学研究者)
 日本のスピリチュアリティの変遷
 水俣病問題から立ちあがったスピリチュアリティ
 病院から在宅への移行で変わる病の捉え方
 グリーフケア研究所ができるまで
 「悼む」という言葉
 死に臨む医療者の主観と客観
 医療者が自身を守るために

雲は死なない 孫 大輔×ブラザー・サンライト(臨済宗・ベトナム禅宗了観派 比丘)
 ティク・ナット・ハン師とマインドフルネス
 日本的な瞑想の強い集中力
 日本的な瞑想とマインドフルネスの違い ─念・定・慧─雲と4つの果実
 安らぎの場所
 孤立が進む世の中
 命の引き継ぎ方
 周りに癒しを与える人
 グリーフを経験して

終章 臨床と宗教 スピリチュアリティのかなたに 孫 大輔
 医師が宗教性について考えるということ
 宗教性のアクチュアリティ
 多死社会と死生観・スピリチュアリティ
 なぜ「悪」は存在するのか
 柳 宗悦の民藝運動と「利他」
 「かなしみ」のスピリチュアリティ
 霊性、魂、いのち
 死と生きがい─スピリチュアリティのかなたに
書評
生と死をめぐる贅沢な追体験への誘い

草場鉄周(医療法人北海道家庭医療学センター 理事長)

 医師,とりわけ家庭医,総合診療医としてプライマリ・ケアに従事する者は,患者や家族との継続的な関係性が育まれるなか,いかに生きたいか,あるいはいかに死にたいか,また死をどう捉えるか,といった話題に遭遇することは珍しくない.とくに,ターミナル・ケアにおいては,生や死の話題は常に頭のどこかに漂い,患者からの一言にどう答えるか,漠然とした不安を感じることも少なくない.
 本書はまさにそうしたモヤモヤを丸ごと受け止め,上から目線ではなく,あくまでも一人の家庭医として悩んできた著者と同じ道のりでこの難題に向き合うことができる希有な書である.死生学を専攻する家庭医,ビハーラ僧,チャプレン,宗教学者,そしてマインドフルネスを実践する求道者という5 名と著者の対話は,医療と宗教の関係性,日本人にとっての宗教,仏教やキリスト教の特性,現代社会において宗教のもつ意味,と多様かつ奥行きのあるテーマが語られる.ただ,常に議論は本書の表題にある「臨床」,つまり医師として患者に向き合う現場の議論に立ち戻るため,われわれの関心が途切れることはない.
 評者はとくに最後の対話に感銘を受けた.求道者は古来の葬送の文化をもつ日本の地方で育ち,神官から禅の道へ,そしてブッダ本来の座禅を求めて海外へ渡り,師と出会う.近年ビジネス界でも話題になるマインドフルネスの本質を日々の実践を通して修得する生活は,まさに「今を生きる」ことに気づく連続.インタービーイング(相互存在),諸行無常といったキーワードは生と死を考えるうえで,日本人には最もフィットする概念と腹落ちした.
 医学書にありがちな知識やノウハウの提供とは対極にある本書.日々業務に忙殺される方にこそ,休日ゆっくりとした環境でこの贅沢な追体験の時間を楽しんで欲しい.きっと,読者一人ひとりのさまざまな経験とこの追体験が融合して生じる心の重石が,臨床での不安を和らげ,喜びをもたらしてくれるだろう.
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