ブックタイトル神中整形外科学 23版 上巻

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神中整形外科学 23版 上巻

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概要

神中整形外科学 23版 上巻

和25 年まで九州大学整形外科の教授を務め,第二次世界大戦をはさんだ苦しい時代にあって,今日でも褪せることのない不滅の業績を残した.当時,発展途上にあったわが国の整形外科学を,世界的レベルにまで引き上げた功績は不朽のものである.神中教授が昭和28年に逝去されてからすでに半世紀が過ぎ,全国の若い読者の中には本書のタイトルにある「神中」がいかなる人であったのかご存知ない方も多いし,その生涯を語ることは,わが国の整形外科の歴史を知るうえでも重要なので,ここに記載する. 神中先生は神戸のご出身で,大正3 年に東京帝国大学を卒業し,整形外科の田代義徳教授の人柄にひかれて東京大学整形外科に入局した.当時は整形外科におけるX 線診断が重要視されつつある時代で,入局後脊椎分離症のX 線診断についての研究に没頭し,成果を東京帝国大学紀要に発表した.この最初の研究には強い思い入れがあり,生涯を通じ脊椎分離症のX 線像を自分の蔵書のラベルのデザインに用いた. 整形外科には運動麻痺の患者が多いので,神経と筋肉の生理学について学ぶために,大正6 年から生理学の永井教授の指導を受け,末梢神経を筋肉内に移植して,その効果を電気刺激で評価した研究で学位を取得した.そのほか,のちに東京大学薬理学教授,東京都知事になった親友の東龍太郎先生と共同研究を行い,単一筋線維に関する神中・東の複数の共著論文を,イギリスのProceeding of RoyalSociety に発表し,高い評価を得た. その後,整形外科で仰手装置Supinationsapparat,神経叢全麻痺に対する機器などを発表したが,神戸のご尊父の健康状態,田代教授の定年退官などがきっかけとなり,大正13 年に郷里の神戸で開業医として整形外科診療を開始した.当時,神戸には整形外科の専門家はいなかったので,新鮮外傷などの患者が殺到した. 大正14 年,留学中の東龍太郎先生からの熱心な誘いにより,イギリスに留学した.そのころ九州大学では,住田正雄初代整形外科教授の後任の選考があり,留学中の神中先生に白羽の矢をたてた.神経・筋肉の生理学の業績が高く評価されたものである.神中先生は受諾し,欧州各大学を視察したのちに帰国し,大正15 年に九州大学に着任した. 九州大学教授着任後は,開業医を帝国大学教授に決定した九州大学教授会に感謝され,猛烈な研究・診療活動を開始された.生理学研究の実績は一流であったが,九州大学では患者の診療に没頭され,次第にわが国の臨床整形外科の礎を築いていった. 脊椎の研究においては,昭和4 年に日整会で脊椎奇形に関する宿題報告をしたが,これを機にわが国の脊椎疾患の診断は進歩し,脊椎カリエスと他疾患との鑑別も可能になった.また,昭和初期には北九州の炭坑で落盤事故が多発し,多くの脊髄損傷患者が発生していた.当時,わが国には脊髄損傷に関し信頼できる文献は皆無であったが,次第に発生機序などを明らかにして脊髄損傷研究への道をひらいた.また,椎間板ヘルニアの研究をすすめ,昭和7 年に助教授の東陽一先生がわが国で初めて本症による坐骨神経痛の手術に成功し,大きな話題となった.それまでは,坐骨神経痛の患者は内科で診療されていたが,このころから整形外科を受診するようになった. 関節外科では,昭和10 年に日整会・外科学会の合同宿題報告として,股関節の皮切,進入路について発表し,高い評価を得12 総論/第1 章 整形外科の意義と歴史図 ??9  教授室で執筆中の神中先生(昭和14 年)