ブックタイトル私は咳をこう診てきた

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私は咳をこう診てきた

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概要

私は咳をこう診てきた

─ 1 ─その人は白衣の裾を翻しながら逆光の中を歩いてきた.1,000 床の威容を誇る呼吸器専門病院,大阪府立羽曳野病院(現在の大阪府立呼吸器アレルギー医療センター)の医局で待っていた私は思わず眼を細めた.逆光の人の口から「木村謙太郎です.」と穏やかなよく響くソフトな声が漏れ出てきた.誰もいない医局のうす暗がりの中で緊張しながら待っていた私の周りに明かりが灯ったような思いがしたのをよく覚えている.私たちは,時に自分の人生を変えてしまう人に出会うことがある.しかし往々にして「出会いのとき」はその意味に気づかれないまま,行き過ぎてしまうのも度々である.木村謙太郎先生との出会いはまさにそれであった.今でも「運命」という言葉と共に折にふれ思い出すそのシーンは,セルジオ・レオーネ監督によるマカロニ・ウエスタン「荒野の用心棒」でクリント・イーストウッドが演じた主人公ジョーのカウボーイハット姿と重なって思い出される(一時期,先生は実際にカウボーイハットを愛用されていた).私は,当時赴任していた病院で働き続けることに嫌気がさしていた.今までにない経験だった.医師になって6 年,職場が嫌になるなど初めての経験だった.運命にあらがうことなく日々を過ごす自分にも嫌気がさしていた.そんなときだった.週に1 回病院にやってくる先輩医師から大阪府立羽曳野病院での研修,それも謙太郎先生のもとでの研修をすすめられた.羽曳野病院は,呼吸器を目指す医師たちの西のメッカとして全国から多くの若手研修医を集めていた.謙太郎先生は呼吸不全チームの総帥であった.すでに私は研修するには年を取り過ぎていた.しかも羽曳野病院の正式の研修医枠は一杯であった.私の申し出を静かに頷きながら聴いていた先生から,無給であれば呼吸集中治療室での研修をしてよいとご許可をいただいた.その瞬間,思わず妻の承諾も得ず,申し込んでいた.妻と二人の子どもを抱えての無給の生活が始まった.南河内の風土の中に立つ羽曳野病院は想像以上の呼吸器疾患専門病院であった.極端1 出会い